親子広場「きしゃぽっぽ」で、子どもたちに手渡す、みことばカード作りを細々と続けています。まっさらの小さなカードに向かう時、参加する親子さんのことを頭に浮かべ、祈り、家のどこかに置かれることを想像しながら描きます。ところが、会を終えた後、噛みちぎられたり、グシャッとなって床に落ちていたり、時にはゴミ箱の中でカードを見つけることがよくあります。小さな子どもの手に渡すので、仕方のないことです。あの子のかもしれない、と見当がつく場合には、手渡しすることもありますし、誰のかわからなければ、自分のポケットにそっと入れます。以前は、せっかく描いたのにな…と悲しくなったこともありました。
しかし、「せっかく〜のに」という気持ちは随分な思い上がりではないか、と気付かされました。自分はといえば、せっかくイエス様がその命を投げ出して永遠の命を与えて下さったのに、悲しませるような裏切りや罪をどれほど犯してきたことか。何様のつもりか。イエス様の命に比べたら、たった数十分で作れる、こんな小さなものに執着する理由は、全くないではないか、と。そして、描いている間の静かな時、それは礼拝にもなっていて、自分自身が恵まれているのです。
ちなみに、落ちたり、捨てられたりしているのを見つけて、私の元へ戻ってきたら、聖書の栞としての人生(紙生?)がスタートします。「よしよし、よくやった、良いしもべだ」と、傷つき疲れ切った我が子を迎える父のような気持ちです。私の聖書や本には、書き損じたカードも沢山挟まっています。出来損ないでも、愛おしい我が子のようなものです。
大事にして欲しかったら、子どもではなく親に渡す、という方法もあるかもしれません。けれど、小さな子ども自身の、その小さな手に、神様からのお手紙である御言葉を「直接渡す」ことが大事なのだと思います。その日の聖書の言葉が少しでも心に残っていることを願いながら。噛んでも(まさに御言葉を食べる!)、握り潰しても(御言葉を握りしめる!)、元気な証拠。もう悲しくありません。神様の祝福を、私は既に十分に受け取っているからです。(津山祐子)