「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」
私の人生で最も語られ、つい最近も心に留まっていたみことばです。
先月のある週のことです。仕事が忙し過ぎて、土曜出勤しないと業務が追い付かない事態が発生しました。土曜の朝起きて「行かねば」という気持ちはありながらも布団から出るのが億劫になり、「日曜日の午後、食事の交わりの後、仕事に行けばいいや」と安易な選択をしてしまいました。
そして、日曜の朝。起きてみると心がモヤモヤ。「あぁ、やっぱり今日は礼拝後、仕事に行かなくてよいように、昨日に行っておくべきだった」という気持ちです。後悔しながら日曜日の午後に働きましたが、結局すべて終わることなく帰宅しました。
過去を振り返ってみると、安息日を聖なる日として意識することはせず、日曜日も自分のことをしたいという思いのまま、礼拝に出席していました。そしてこの時も、自分が安心するために仕事をしたいという自己中心の思いから、安息日を聖なるものとすることができていませんでした。私は忙しさの中で、仕事自体を目的と捉え違い、日曜日も働いてその成果を上げようと思ってしまっていたのです。しかし、今回のことを通して、神様の栄光を現すために、神様が私に与えてくださった仕事をしているのだと気づかされました。つまり、日曜日は仕事を止めて安息日を聖別することこそが、神様の栄光を現すことであるのだと。
最近の礼拝説教や石堂ゆみ師のお話を受け、安息日を守る理由は、創造主である神様から与えられた命令であるから。これに尽きると改めて感じています。そして、この命令自体が恵みであり、そして、これを聖として守ることが祝福であることを覚え、喜んで安息日を聖別していきたいと思います。
最後に、石堂師のお話より。
「ユダヤ人は安息日や祭りを守り行うことで、主の民であることを証ししています。同じようにクリスチャンは日曜日教会に集い礼拝する姿から周囲に証ししていると思います。」
(中村言葉)