標識を無視しますか

 教会に通う途中のT字路に、まったく無視されてきたストップサインがあります。地面に大きく「止まれ」と書かれ、標識も立てられていて、絶対に見落とされるはずがないのに、ほとんどの車が徐行さえせずに通って行きます。あれほど堂々と無視され続けていると、「止まれ」の標識のほうが間違いなんだろうか、と思われてきます。おそらく、そう思いこむようになったドライバーが、次々と「標識無視」に加わっていくのでしょう。

 私はそのT字路で、標識を無視して突っ込んでくる車と対い合うことになります。彼らが無視するとわかっているので、こちらが譲歩せざるを得ません。クラクションを鳴らしても、ドライバーは「???」という顔をするか、にらみます。

 社会マナーやルール、良識や倫理道徳が一部の人々に公然と破られ、破ってても恥ずかしくなくなり、やがて破るのが当然となり、多くの人が破ることに参加し、ついには守るほうが間違っているというふうになっていく過程を、あのT字路の標識がまざまざと見せてくれたように思います。

 さて、再び「止まれ」の標識が守られるようになるには、二つのことがなされるほかないようです。一つは、事故が起こり、犠牲者が出ることです。自分で痛い目に遭わなければ気づかないのが人間です。正しい人が巻き添えを食うのは、腹立たしい限りですが。もう一つは、そこに警察官が立って取り締まることです。無視したドライバーを捕まえて罰金を払わせればいいのです。

 実は、最近は無視する車が減ってきました。いつかは起こるだろう事故が起こったようです。以後、警察が隅に隠れて見張るようになりました。

 あなたは、人生行路で無視している「標識」がありませんか。事故が起こして痛い目に遭うまで続けますか。主なる神を恐れて、罰金を払う前に止めますか。今日、決めることを強くお勧めします。