傷つきやすい土の器に宝を(Ⅱコリント4:7-18)

人間はひとたび生まれたら、無傷では生きられません。それゆえ体は傷つくことを前提して造られています。体には傷を癒す力、免疫機構が備わっているのです。心も同様に傷つきます。しかし、心には生まれつきの自然治癒力はなく、免疫機構や防衛体制もありません。心の傷に対処するには、訓練を受けなければならないのです。

人は幼い時から様々な傷を負って育ちます。失敗して傷つき、無視されて傷つき、騙されて傷つきます。体の特徴や成績で傷つけられ、貧しくて傷つけられ、ありもしないことでも傷つけられます。なので、傷つくことを恐れたり、傷ついたことを隠したりする必要はありません。重要なのは傷に人生を支配されないことです。

では、傷に支配されないためにはどうすればいいか。それは「死ぬ」ことです。生きていれば痛みます。だから死ねばいいのです。死んだ人は傷つけられても痛みません。むろん、死んだままでは困ります。傷つきやすい自分が死んで、傷に支配されない自分が新しく生まれるのです。

パウロはこう言います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)。

自己中心で高慢で見栄っ張りな自分(そういう人が傷つきやすい)が死んで、自分の代わりにキリストがうちに生きてくださるなら、心の傷の痛みから解放されます。パウロほど傷つけられた人はそういません。しかし、パウロは傷に支配されず、恨まず、自己憐憫に陥らず、逆にその傷のゆえに主の豊かな恵みを体験しました(Ⅱコリ 12:9)。

  クリスチャンでも傷つきます。癒される傷もあれば癒されない傷もあります。しかし、私たちは土の器に宝(キリスト)を入れています。傷に支配されず、かえって傷のゆえにキリストの「測り知れない力」を体験できます。人生の目的は、心身に傷があっても達成できます。いや、人は傷ゆえにキリストの栄光を現わすこともできるのです。

(川端光生)