祈れば百点が取れるか

 神学校に、非常に良く祈る学生が入りました。彼は時間さえあれば祈っていました。山にこもって祈ることもたびたびでした。しかし、彼には問題がありました。それは、祈ることしかしないことです、勉強せず、祈ってばかりいたのです。

 テストの日が迫ってきました。彼はそれでも準備せず、前日も祈っていました。何を祈ったのか。「主よ、良い成績が取れるようにしてください」と、夜を徹して祈ったのです。そしてテスト当日、問題用紙を受け取ると、何一つとして分かりません。何を問うているのかさえ理解できない問題もありました。彼は祈りました。「主よ、答えを教えてください。」 しばらくして、彼はすべての解答欄を埋め、テスト用紙をひっくり返して外に出ました。

 教授が採点しようと彼の答案用紙を見ると、すべての答えが「主は知っておられる」になっていました。教授は頭を抱えました。間違ってはいません。しかし、教授が求めている答えではありません。困った教授は、学生と同じように祈りました。「主よ、どう採点すればいいでしょうか。悪い学生ではないのです。」

 教授は主からの答えを得ました。「『主はすべてを知っておられる』。ゆえに主は満点。しかし、学生は何の知らない。よって学生は〇点。」

 確かに、神だけがなさることは神に委ねなければなりません。しかし、自分がなすべき役割は自分がなさなければならないのです。神の役割を人間がしようとしたり、人間のなすべきとを神に任せてはなりません。キリストはラザロをよみがえらせましたが、墓の石を開けることは、人間にお命じになられました。

 主に任せるべきことなのに、祈らず、自分でなそうとして、労苦していませんか。自分がなすべきことなのに、主にお願いするだけで、自分は何もしないでいることはありませんか。それを正せば、信仰生活は安定してきます。