若い頃、韓国に一人旅して、秋雨で全身ずぶぬれになり、安ホテルに投宿したことがありました。悪寒がして震えが止まらず、これはまずいと思ったら、案の定ひどい風邪を引いてしまいました。そのまま二泊三日、高熱と頭痛で寝たきりでした。薬も手に入らず、着替えもなく、飲食物を買いに出るのにも難儀しました。
古希になった韓国の知識人、李御寧氏が京都に単身留学していたとき、重く長い風邪を引き、「病気は、独りでかかってはいけない」「病気になったら、自分は孤独なのか、だれと一緒に生きているのかが、身に沁みて分かる」という言葉を残しています(彼は無神論者でしたが程なく洗礼を受けました)。そのとおりだと思います。私も、真夜中に寝付けず、「この国で知っている人はだれもいない」と思うと、言い知れぬ不安が頭をかすめました。一人ぼっちは好きなほうでしたが、さすがに寂しすぎる3日間でした。
孤独は治りを遅くらせ、こじらせます。病人を一人ぼっちにしてはならないのです。話しかけてくれて、話を聞いてくれる人が側にいないのはしんどいものです。
私たちの教会でも、ここしばらくの間に3人の方が立て続けに癌で入退院をなさいました(以前から闘癌中の方々もおられます)。その際、教会員の方々が、多忙のなか、時間を取って、かわるがわるお見舞いなさいました。お見舞いとは、「あなたは独りではない。主が共におられる。あなたはキリストの体の一部だ」ということを、病む方々に思い起こさせる行為です。以前入院されたいた方が、兄姉のお見舞いを受けて、「ああ、キリストがともに来てくださった。孤独な戦いではない」と感じたと言っておられました。
病に伏すとは、主を身近に感じることです。詩篇23篇の世界を自分のものとして味わう時です。見舞うとは、病む方にその世界を運び、とともに味わうことです。両方が励まされます。