出エジプト記に、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、イスラエルの民が主を試みた(17・7) 場面が出てきます。エジプトで主の力強い御手によって導き出され、雲の柱と火の柱で守られ、乾いた葦の海を渡り、マナをいただき、数々の奇跡を見てきたのに、水がなくてのどが渇いたとき、「主はともにおられるのか」とつぶやいたのです。人間は、どんなに主の恵みを受けても、主の臨在を信じないもののようです。
そんなイスラエルの民のことを、3世紀のティベリアの教師ラビ・レヴィという人が「父に背負われた息子」というたとえ話で言い表しています。
「イスラエルの民は、息子を肩に背負って市場を歩く父親に似ている。息子が何か欲しいものを見つけてねだると、父はそれを買ってやった。そんなことが三度あった。ところが、息子は通行人に声をかけて尋ねた。「私の父を見ませんでしたか」。父親は息子を叱りつけた。「お前はバカか。お前は私の肩の上に乗っている。お前の欲しいというものは何でも手に入れてやった。なのに、なぜ人に、父を見ませんでしたかと聞くのか」。父親は、息子を肩から放り出した。そこへ犬がやってきて、息子に噛みついた」。
つぶやいたイスラエルの民は、アマレク人に襲われます(ミルトス12.8参照)。
そしてダビデもまた、主の恵みと臨在を忘れて行動した者の一人です。彼がバテ・シバと姦淫し、夫ウリヤを謀殺したとき、主はダビデにこう語られました。
「わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか」(IIサムエル12・7~9)。ダビデの場合は、自分の息子に噛みつかれることになります。
あなたとともにおられる主を忘れてはなりません。