「饅頭は、皮を剥き、アンを材料に分けて食べることはしない。饅頭は丸ごと食べる。私はそんな常識的なことを受け入れた」(『知性から霊性へ』)。
韓国を代表する知性のひとりで、無神論者を標榜していた李御寧(イ・オリョン)氏が、キリストを信じ、洗礼を受ける決心をしたときのことを振り返り、そう語っています。つまり、「聖書を細かく切り分けることはせず、丸ごと噛んで飲み込むことにした」と言っているのです。キリストを自分の主と信じたなら、神による天地創造、三位一体、数々の奇跡、罪の赦し、復活、キリストの再臨と新しい天と地もすべてそのまま受け入れるのです。一つ一つを吟味して、天地創造は信じるが、三位一体は確信できない、罪の赦しは受け入れるが、復活はあとでよく考えてみてから結論を出すというのではないのです。
「神は存在しない」と信じる人は、神による創造も、奇跡も復活も、死後の世界も、存在の究極的な意味も目的なども、絶対的な善も悪も、そのすべてを丸ごと受け入れません。当然です。一つでも信じていたら矛盾です。逆に聖書の唯一なる神を信じるなら、すべてを受け入れていなければ矛盾です。
あなたは、全面的に唯一神を信じる生き方に変わっていますか。こんな姿勢をとってはいませんか。
「このことでは奇跡を信じられるが、あのことは神様でも無理」「この人との関係は主の教えに従うが、あの人との関係は自分の好き嫌いで決める」「この領域には神の介入をお願いしたいが、あの分野ではご遠慮いただく」「祈りや賛美はするが、聖書の学びは敬遠。聖書は熱心に学ぶが、賛美は面倒」「祝福は歓迎、信仰に伴う患難は御免被る。忍耐したくない」。
もしそうなら、神中心と自分中心を都合よく使い分けているのです。それでは突き抜けた信仰にはなりません。全面的に神の世界に入る決心をしましょう。そのとき、考えること、生きることのすべてがトータルに変わります。